FC2ブログ

東京漂流瓶集配局

物語と音楽を偏愛しています

CHAOS RINGS Ω

ケイオスリングス・オメガのプレイ中メモをまとめました。
シリーズ概要は前作のエントリをどうぞ。

このオメガは無印の前日譚にあたる物語で、あいかわらず超コンパクトな造りながらガッツリ楽しめました。
以下ごんごんネタバレます。

関連記事
スポンサーサイト



CHAOS RINGS



ものすごくぐっとくるツイートを拝見したのをきっかけに、勢いで買ってしまいました。(→vitaポータル
これを読むまでこのゲームの存在すら知らなかったのに、認識から購入まで史上最速だったかもしれません。ご縁って面白いな。

ケイオスリングスIII プリクエル・トリロジー - PSVita
(2014/10/16)
スクウェア・エニックス


で、さっそく第一作の無印から始めてみたよ!(上のソフトはI、Ω、II、IIIの全部入りパックです

ゲームは金環日蝕のイメージからはじまる。「ケイオスリング」ってこれかな?とも思ったんだけどタイトルは複数形だしなー。
で、その日蝕をトリガーとしてさまざまな大陸から5組の男女が謎のコロッセオに集められ、「これからみなさんで殺し合いをしてもらいまーす。報酬は不老不死でーす」と告げられる…。ふむふむ。死or不老不死って、そそらない条件だねぇw

バトルはLV1でもいきなりHP・与ダメ・被ダメともに数百単位からスタート。でもスキルパネルのような「ジーン」の付け替えと、与ダメも被ダメも割り増しになる「ペア」行動の使いどころが独特で、大味ながら意外と面白い。
ダンジョンの合間に挟まるパズルステージも楽しい…んだけど、スマホゲーのベタ移植なのでパズルのところの操作性だけが最悪なのがしんどいな。L3でカーソルを出してスティックで動かし、Aボタンでタップ扱いになる、が、やりづらー!

わたしはvitaTVで遊んでいるので、スマホがTVに拡大されたような見た目になっている。もろもろでっかくていいな。最近のゲームはフォント小さすぎると思っているので…。PS4のモンハンとか、FF7リメイクとか、自分でやったわけじゃないけどひどかったよね。家人たちは字が読めないと半泣きでしたよ。世上のみなさんはあのフォントサイズで問題ないのかなー? 閑話休題。

最初に選んだのはイルカ&シャモのペアだ。褐色肌がカッコよかったのでなんとなく。ペアたちは仲が良かったり悪かったりで選抜基準も不明なんだけど、どうもこの二人の仲は最悪の部類らしい。

以下、さらにネタバレつつ語ります。

関連記事

羅小黒戦記

映画を観てきました。(→公式サイト


『羅小黒戦記』(ロシャオヘイセンキ) 予告編

友人が誘ってくれるまでまったく存在を知らなかった中国のアニメですが、静かに人気になっているようです。
わたしが行った阿佐ヶ谷の劇場では、去年の秋からずっとかかってるらしい。ロングラン!

あらすじはこんな感じです。

黒猫の妖精・小黒(シャオヘイ)は開発によって故郷の森を追われ、人間社会の片隅で放浪生活を送っていた。そんな小黒を助けてくれたのが、同族の妖精である風息(フーシー)で、その仲間である洛竹(ロジュ)、虚淮(シューファイ)、天虎(テンフー)らにも受け容れられ、安息の地で暮らせるかに思えた。
そこを急襲したのが、「館」と呼ばれる組織の執行人である無限(ムゲン)。風息らとはぐれてしまった小黒は無限に館へと連行されるが、道中で無限は不器用ながら小黒の面倒をみてくれ、未熟な術の手ほどきもしてくれる。
まだ子供の小黒には、風息たちと無限たちと、どちらの陣営が善であるのか、どちらを信用すべきなのかわからない。そして小黒の前に風息が再び現れるとき、事態は急転直下の展開を迎える。


一見するとこの作品は自然破壊批判や文明批評の物語のようでもあります。ですが、「館」が現代社会と妖精との融和・調整をはかる機関であることを考えると、どちらかといえば民族紛争の話にみえるなーと思いながら観ていました。先住民族を逐ってしまった現代文明が、細々と生き残っている彼らと共存しうるか、というような。
だから「館」は妖精たちに仕事や住居を斡旋したり、新しいライフスタイルを提案したり、そのどちらにもなじまない場合は「館」本部に住まわせたりしています。そうした措置を手広く展開していながら、どうしても管理指向が強いために根本的に相いれない妖精たちもいる、という状況もまたリアルだなあ。

背景美術は濃密で美しく、凝りすぎずシンプルで親しみやすいデザインのキャラはぬるっぬる動き、映像表現としてのクオリティはとても高かったです。小黒は複数形態に変身するのですが、どのかたちでも気持ちよくかわいらしく動いていました。
けれど、全体的な観ごこちは、良くも悪くもすごーく同人的でした。
背景とキャラの動きの合わせ方、BGMの入るテンポ、カメラワークなど、演出のあちこちにものすごく濃厚なジブリ臭を感じます。初撃からずっとトップスピードで外連みの強いバトルには、猛烈なドラゴンボール感を感じます。ほかにも、スパイダーマンであったりシン・ゴジラであったりAKIRAであったり、たぶん作り手たちが魅了されたことのある映像をすべてブチ込んだんだろうなーと。そんな丸呑み(=愛の強さ)と未消化(=表現の拙さ)の感覚は、じつに同人的だなぁ。

同人≒素人感を生み出していた要素はもうひとつあって、それは残念きわまるクオリティの字幕です。これは日本側の責任だろうけど…。
1秒4文字原則の甚だしい逸脱、大量の誤字脱字、消しそびれた幽霊ルビ、助詞の誤り、劇中専門用語の練り込み不足。うっぐうううう、初校レベルのものをマスターにすんなあああああ! これはひどいぜ。プロじゃなくて有志が訳してるんでしょうか?? 

で、物語上で謎なところがちょいちょいあったのですが…これがシナリオと字幕のどちらの不備に由来するのかよくわからないのです。困ったな。
以下ネタバレつつ語りますが、そこそこ辛口になりますです。

関連記事

梅村能の会 道成寺を観る 観世宗家 特別出演

能を観てきました。(→公式サイト

狂言『蝸牛』
 太郎冠者:野村萬斎
 主:高野和憲
 山伏:深田博治

独吟『小原御幸』 森常好

能『道成寺』 赤頭 中之段数ビョウシ 無ヒョウシ之崩 ※ヒョウシは足偏に間
 シテ:観世清和
 ワキ:梅村昌功
 ワキツレ:舘田善博
 ワキツレ:則久英志
 オモアイ:野村萬斎
 アドアイ:野村裕基
 大鼓:亀井広忠
 小鼓:観世新九郎
 太鼓:金春國直
 笛:一噌隆之

上演前には山中玲子先生の解説があり、おおむね以下のような内容のお話をしていただけました。内容を思い返して書いているので、言葉のチョイスは先生ではなく筆者です。

●この会は、国立能楽堂の三役(ワキ方・囃子方・狂言方)養成所第一期生である梅村昌功師が道成寺のワキを披く(ひらく=大曲を初演する)にあたって、観世宗家の清和師がシテを勤めるという豪勢な舞台です。家の生まれではないということは、舞台との接点や日常の稽古に10年~20年のビハインドを負ったスタートになりがちなのが伝統芸能の動かしがたい現実なのですが、こんな会が開催されるとはじつにめでたいことだと思います。

●能『道成寺』は、『法華験記』に採録されているような有名な仏教説話(≒安珍清姫伝説)を下敷きにしています。
紀州に住む女の家に、熊野に参詣する僧が投宿する。僧に一目惚れした女は閨に行って関係を迫るが、慌てた僧は「今は無理だが帰りに寄るのでそのときに」などと適当なことを言って逃げ出し、道成寺の鐘のなかに匿われる。騙されたと気づいて追う女は蛇体に変じて、僧の隠れる鐘に巻きついて炎を吐き、そのまま僧を焼き殺してしまった。
というような物語なのですが、能ではこのオリジナルに大きくふたつの工夫を加えています。ひとつは、この有名な物語の後日譚として能を設定したこと。もうひとつは、淫奔な人妻あるいは後家(→悪役にしやすい共同体外部の女)から純真な深窓の令嬢へと、女の属性に変更を加えたことです。

●女が蛇へと変身する最大の見せ場は、メディアごとにさまざまな表現が凝らされています。絵巻物だったらだんだん蛇体に変じていくさまを経時的に描きますし、文楽だったら美しい女性のカシラが一瞬で獰悪な蛇に早変わりします。今回はシテが披きではないので「赤頭」という小書(特殊演出)がついています。通常は鐘のなかで縫箔を脱ぎ、面をかけ替え、髪を乱すていどの装束替えなのですが、今回は赤頭と朱の長袴を着け、上から下までほぼすべて装束を替えることになるのです。後シテは完全な蛇体となって再登場することになります。

…なるほどなるほど。知らないことばかりで、やはり解説ってありがたいものです。他にもいろんなお話がありましたが、ひとまず割愛。

そんなお話の後で「さあ始まるぞ」と思いきや、まず上演されるのは当然ながら『蝸牛』なのでちょっとつんのめりましたw おっとそうだったw
今回の『蝸牛』は、スーパー天然ボケ太郎冠者を演じる萬斎師のソリッドな芸風のせいか、若干のホラー風味があったかもしれません。主に何をどう説かれてもつっこまれても、山伏に「囃さぬかいやい」と袖を引かれることですぐ「で~んで~んむっしっむっし…」と何度もフリダシに戻ってしまうのが、なんとなくハーメルンの笛吹きにやられちゃってるような微妙な怖さがある。だから結末がデフォルトの「追い込み」になっていたのがしっくりきて良かったな。たまに採用される、主も一緒にノッてしまうタイプの「浮かれ込み」は、それまでの間にオールOKなゆるゆるハイテンション空間を構築していないといけないので…。
深田・高野両師の若さ(50代だけど)だと、やはりキレッキレにすぎる萬斎をふんわり緩和するのは難しいようだなーと感じました。

次は『小原御幸』の独吟。森常好師は以前から大好きなワキ方で、ほんとに声がよくてしびれます。
そして、休憩を挟んでいよいよメインディッシュ。


さてさて、能『道成寺』はこんな物語です。上記の説話とちょいちょい違うよ。

紀州道成寺では、長らく絶えていた鐘を再興して鐘供養をすることになった。住職は寺男を呼び、事情があって鐘供養は固く女人禁制とすることを言いつける。
そこへ白拍子が現れてどうしても鐘供養に舞を奉納したいと頼みこむので、寺男は境内に白拍子をこっそり入れてしまう。鐘に近づくと白拍子の舞は激しくなり、ついに鐘を落としてそのなかに飛び込んでしまった。
慌てた寺男は鐘を動かそうとするが、煮えたぎるように灼熱していてとても触ることができない。ことの次第を報告された住職は、鐘にまつわるおそろしい話を語りはじめる。
かつてこの地に真砂(まなご)の荘司という者がおり、荘司には一人娘がいた。奥州の僧は毎年熊野詣をする折に荘司の邸を定宿としていたが、荘司は娘をかわいがるあまりに「あの僧こそお前の夫になる人だ」とふざけていた。僧も娘のためにかわいらしい土産などを持参していたので、娘は僧侶は妻帯しないことなど夢にも思わずに成長した。
ある年、娘は僧の閨に行って「いつまでわたしを放っておくのですか。早く妻にしてください」と迫ったので僧は驚倒し、その場を逃げ出して道成寺に至り、下ろした鐘のなかに匿われた。
僧を追う娘は水嵩が増した日高川を泳ぎわたるうちに蛇体に変じ、道成寺にやってきて僧を探しまわる。鐘が下りているのを不審に思い、鐘に七重に巻きついて炎を吹きかけると、鐘と僧はともに焼け溶けてしまった。
白拍子は娘の執心の顕れだろうと、住職と従僧たちは鐘に向かって祈祷をはじめる。法力によって持ち上がった鐘のなかからは蛇体に変じた女が現れ、住職たちと激しく戦う。蛇の吐く息は猛火となって自身を焼き、苦しんだ蛇は日高川に飛び込んで姿を消すのだった。


………ん~~~

最近オペラの物語ってひっでえのばっかだな!と再認識してたとこだったのですが、能もたいがいだな…。
えっとまず、先述した能に翻案するにあたっての二つの工夫は、能という表現形式にバッチリ合致したすばらしいものだったと思うのです。そして、それが効果的であるがゆえに、現代の視点からするとさらに極悪…みたいな…。

まず、女を肉食系熟女から萌え萌え少女にしてしまった点について。
山中先生によると、当時「僧侶の妻になる」というのは考慮にも値しないぐらいありえないことだったそうで、クソ親父の戯言もそうした常識がベースになっています。つまり親父は、溺愛する娘を誰にもやらん的な意味でそうした(安牌であるはずの)絵空事を吹き込みつつ、真に受けた娘がうっとりしたり恥じらったりしているのをニヤニヤ眺めていたと思われるのですよ。き、き、気持ち悪うーーーーーーー!!!
で、成長した娘は僧侶に夜這いをかけます。僧侶にはそんな気はないし、娘は婚約者だと信じているし、どっちもイノセント無罪。エロ展開の責任を誰も負わないうえに積極的な娘のありさまも楽しめちゃうという、完全なラッキースケベシチュですよ…なにこれ…。(べつに舞台上で演技されるわけじゃないただの語りだけどさ
で、僧侶はその場を適当にごまかして遁走します。年長者かつ聖職者なのに、「そんな事実はいっさいありません。御父上に確認してごらんなさい」と諭しもせず。娘にしてみればつれない婚約者に対して勇気をふりしぼって自分からアタックしてみたのに、いきなりテンパッて逃げられてわけがわかりませんよ。親父には騙されっぱなしだし、この娘の周りの深甚なディスコミュニケーションにはマジで泣きたくなります。

それだけではありません。
娘は、「深窓の令嬢だったのに白拍子(=流しの男装ダンサー)になっちゃう」「蛇体にもなっちゃう」と、はしたない(と考えられている)ほうへ転落するベクトルの変身を二重に期待されているうえ、住職たちに祈り伏せられても成仏もできないのです。
本性を現して川の波間に消えたということは、この『道成寺』の物語はゼロ地点にリセットされたということ。新しい鐘ができるたびに彼女は呼び戻されて『道成寺』を再演し、そのたびに女の妄念だの邪淫だの執心だのの怖ろしさをあげつらわれることになるのです。なんという無間地獄…。
「男性は他責的に、女性は自責的に使う〈メンヘラ〉ということば」についての対談↓を思い出しちゃったくらいです。
 恋する私の♡日常言語学 Ordinary Language School【Vol.6】|花椿

で、こうした構造になっているのは能が後日譚として構想されたからなわけで。能を観ているわたしたちは同時に鐘供養に集った群衆でもあり、ワクワクキトキトした視線を注ぐことで、娘=白拍子=蛇が体現するスペクタクル&カタストロフ空間を成立させている張本人でもあるのです。「慎みのない女が破滅するのを何度でも楽しんでいる」残忍な視線になっちゃってるの、ぐぅぅ、罪深い…! 俺、罪深いよ…!

『道成寺』の原型である『鐘巻』という能を作ったのは観世信光という15世紀に活躍した能楽師だといわれ、彼は世阿弥の大甥にあたります。幽玄を追求した世阿弥とは対照的に、華やかでドラマティックな「風流能」(ふりゅうのう)とよばれる作風で、現代でも人気のある名曲を多く残しました。わたしも彼の作品はとても好きで、先日も代表作である『紅葉狩』を楽しんでいます。(→感想はこちら
でもそのヴィジュアルが強い作風こそが、その洗練をきわめた見世物感こそが、ギルティなんだきっと…><

能舞台は、開演した瞬間はからっぽです。
まず囃子方が登場し、地謡たちが登場し、成人男性4人がかりで持ってもよろめくほどの重量の鐘の作り物が運び込まれ、その重く巨大な鐘は定まった手順で粛々と舞台上部に吊り上げられます。そうして場が整ったらワキが登場し、複数人が複雑に入り乱れて演技し立ち回りをし、登場人物たちがすべて退場したら吊ったときの手順を巻き戻すように鐘が片づけられ、地謡と囃子が退場して舞台は完全なからっぽに戻って終演となるのです。
つまり能という舞台芸術は、設営と撤収すら美しいんですよ…。蛇がバトル中に脱ぎ捨てた縫箔を、後見が秒でかっさらって片づける手際さえ美しい。開演から終演まで舞台上でおこなわれるあらゆる所作が「洗練をきわめた見世物感」であり、『道成寺』という演目はそのへんまで込みで鑑賞するものだという共通認識もあるように思うのです。

けれど、そこで表現される核になっているのは、無知と無力を強いられた娘が物語の内部・外部の両方において、男性に好きほうだい消費しつくされるさまなのだということは、しっかり覚えておきたいと思いました。この演目を楽しむということは、きっとその視座に相乗りするのを意味するのだとも思います。
清和師はいつもどおり端正で、うっかりすると己の悪趣味さを忘れるほどでしたのでうっかりしないようにしなければ。蛇体がシテ柱に巻きつく型は、もっと巻きつき感があってもよかったな。
昔から大好きな亀井広忠師の大鼓は、今回も空気を斬り裂く深く硬質な音で、最高オブ最高でした。もっと聴いていたい。

というわけで、今までなにげに眺めていた『道成寺』のテキストをまじめに読んでみたら、予想外のダメージを受けてしまったのでした。でもやっぱり能が好きなんだー! 次は女人成仏とか草木成仏系の曲でも観てみようかな。脇能(神様がシテになるめでたい系の曲)も好きなので、それでもいいな。

関連記事

恩田星人


恩田星人 (Canna Comics)
(2020/1/29)
雪路 凹子 (著)
全1巻


ここが擬人化の極地!? セミ×宇宙人!

「おれの子供を産んでください!!」
恩田ことオンディーに突然求愛してきたのは、昨日助けたセミだった!?
おかげで無事大人になれたと言うセミ・蝉丸に、オンディーは──
「いや…おれは宇宙人なんだ。オスだし」

そんなこんなで早朝からの大騒ぎの末、同居することになった蝉丸とオンディー。
こうして、求愛の夏休みが始まった──!

カオスなアパート物語☆


というのが公式の惹句。はい、まったく意味がわかりませんね?
でも、このあまりのわけのわからなさに「買わねば」という心が勃然と湧きおこり、さくっとゲットして読んでみたのだ。
で、おそるべきことに上記にはなんの誇張もなく…これはたしかに、超美麗なこってり系の絵柄で描かれたセミ×宇宙人のBLであったのだ。看板にいっさいの偽りナシ!

しかもね、ものすごくふっとんだシュールなギャグなのに、生と死と愛と繁殖と幸福についてのまじめな話でもあるんだよ…。最後なんかうっかり感動しちゃったんだよ…。ちゃんとひと夏の恋物語なんだよ、セミだけに。

あんまり良くてびっくりしたから、BLを許容すれども愛好はしない家人にも思わず読ませてしまったところ、(!?)(www)(Σ)といった気配を漂わせながら読了し、「最初から最後まで考えたこともないアイディアしかなかった…」と絶句していた。な、な、すごいだろ!? 読んでくれてサンキュ!

一読以上の価値はあると思うので、気になった方はぜひ。

ではネタバレつつ語ります。